Tsukuri


水・麦芽・ホップの3種類の原料から、ビールは作られる。


小学生の頃、じいちゃんが飲んでいた、銀色のシールが貼ってある瓶ビールの匂いを嗅いで、気持ち悪くなった。そして、じいちゃんが横で「飲むが?」と半目で聞いてきた。

息もビールの匂いがして、ますます気持ち悪くなった。


大学に上京して、初めて飲んだビールの味は苦すぎて飲めたもんじゃなかった。すぐに捨てたっけ。

飲んだわけじゃない、空になった銀色の空き缶の中の方の匂いを嗅いだ。

それは、少しだけじいちゃんの匂いがした。


もう、いつ死んだかも覚えてない。


ビールサーバーのタップを倒して、ビールを自分の小さいコップに注ぐ。お客さん用のグラスじゃなくて、自分の水分補給用のコップ。

この、深みのある苦味がたまらないんだよなあ。


お店を開けて、すぐにお客さんが来ることはない。

まずは景気良く、なんて半ば強引な言い訳で、大好きなビールをくいっと喉に流す。


生ビールの「生」とは、一言で言えば


「水と麦芽とホップを混ぜて熟成発酵した液体を、濾過しただけの状態」


濾過されるのは発酵した酵母。この酵母を熱で殺菌処理すると、熱処理ビール、いわゆるラガービールになる。


味。

昔はそれこそ違いが大きかったが、現代の技術は凄い。

生じゃなくても、なんでも美味い。第三のビールと呼ばれる発泡酒なんかは、家の冷蔵庫に常に入れてある。

やはり商品によって麦芽の量、ホップの量、濾過や加熱の技術で色んな美味しい味が作られている。


カラン、とドアが開いた。初めて見る、イチゲンさんだ。

中肉中背、30代か、少しカジュアルなスーツ。こんばんは、と声をかけると、「とりあえずビール下さい」と言いながら入り口付近のカウンターに座った。

持ったメニューを戻して、直ぐに冷蔵庫から冷えたグラスを出して注ぐ。


とりあえずビール下さい。この日本語には、文化がある。1秒でも早く出さなければならない。お客様も1秒でも早くビールを喉に流したい。友人や他の人と飲む時に選ぶ時間が勿体ないので、とりあえずビール下さい、になる時もある。

まあ、日本では。


一気にグラスの2/3を飲んだその方は、グラスを置いて、大きな溜息を、続いて大きなゲップを低めに出した。

そうしてからカウンター、僕、店内、と順番にゆっくり見渡し始めた。


「良い店ですね」自分の眉毛が上がるのがわかる。

そう言ってくれるお客様はまず少ない。


「ありがとうございます。初めまして、店長の内川です」

「鈴川です」そういうと、鈴川さんは残りのビールを一気に飲んだ。「ジン・マティーニ下さい」


グラスを置きながら注文をして、ポケットに手を入れる。そしてこちらを見る。


僕は、灰皿を出す。

ポケットに手を入れた時には既に、自分の手も灰皿に手が伸びるようになっている。

聞かれる前に、出す。


「吸えるんですね、良かった、ありがとうございます。もう街中じゃ吸える所全く無くて、煙草代すら減っちゃいました。そしたら知らぬ間に体重が増えるんですよね」

ははは、と言いながら鈴川さんは大きく煙を吐く。

「そうですね、まあ僕も吸いますから、ここは。いつでもオッケーですよ」


そう言った時には、氷を入れたミキシング・グラスに水を入れ、軽くステアし、氷の角を取る。そこから、オリーブをピンに挿す、レモンの皮を用意する、カウンターにジン、ドライ・ベルモットを並べる。

そこまで30秒とかけない。


「お味はドライが好きですか、それとも甘めか、ダーティでも」

聞きながらミキシンググラスの水を切る。


「お任せで」


ひと呼吸おく。


「かしこまりました」


ジン:ドライ・ベルモットは5:1が基本である。

今日の天気は晴れ。現在の気温は約25度前後、湿度は高め。

ビールを一気に飲んだ。すぐに次のが欲しい。出来れば煙草を吸い終わると同時に出るといい。それらの情報の電気信号を一瞬で脳へ流しながら手を動かし始める。

そう言うと、ジガー(メジャーカップ)は使わずに目分量で、ジンから注いでいく。長年の経験から、0.5ミリ単位で液体を注ぐ事は可能になる。


バースプーンは、氷を崩さないように、慎重に入れる

ステアは、アートだ。

味の変化をコンマ秒毎に脳で感じて、完成形へと持っていく。氷の温度と液体の温度。化学と芸術をコントロールする。


ここだ。

音を立てずに止めてバースプーンを抜く。今日は1度低めにした。


煙草はあとひと吸い、というところか。鈴川さんは何も言わずにこっちを見ている。


冷蔵庫からカクテル・グラスを出し、マティーニを注ぐ。氷は決して崩さない。


鈴川さんが煙草を消す。


2秒後。お待たせしました、と言いカクテルを出す。レモンピールを振りかけ、オリーブを側に添える。

同時にお冷やを出す。

「ジン・マティーニでございます」


お冷やを飲んでから、マティーニに口を付ける。「うん。最高です」ひとり言のように、鈴川さんが言った。


カクテル作りとは、常にお客様へ、今飲む、最高の一杯を提供する。

お客様が来ない日もある。仕事が嫌な日もある。色んな感情はあれど、決して表に出してはいけない。

そして誠心誠意の努力で、経験で、魂と感謝を込めて、作る。

カクテル作りの間だけは特に、無駄な感情を持つ自分を一切押さえて、最大集中する。

僕の師匠、口がビール臭かったじいちゃんは、これを「仮作り(つくり)」と言っていた。最大の精神集中を常に保つ事は出来ない。

しかし、カクテルの味には雑念が混じってはいけない。だからこそその瞬間だけは、自分を仮作るのである、と。


「また、来ます。本当に美味しかったです。ごちそうさまです、内川さん」


にっこりと笑って出て行く鈴川さんの笑顔は、どこかスッキリとなったようで、とても素敵に見えた。

カウンターには、手を付けてないオリーブだけが残っていた。


「完璧とは難しいものだなあ」と呟きながら片付ける。


そして自分の手はとりあえず、ビールサーバーへと向かった。