Neat




ああ、お腹が減った。何故人間はお腹が減るのだろう。食べては出る。食べては、出る。出るのに、食べる。なぜだろう。お腹が減ったら、どんなに不味そうなものも、美味しそうに見える。この現象に名前は付いているのだろうか?動物の本能。付いてないなら、僕が付けようかな。


どうでもいいことを考えながら、立ち上がって部屋を出る。そして、観音開きの冷蔵庫を開けた。ウスターソース、ケチャップ、マヨネーズ、醤油、ドレッシング。「なんだよ。食いもん、何もねえじゃねえか」イラッとして、強くドアを閉めた。


ニート。仕事はしていない。したくないからだ。


一緒に住む妹が、週5日のパートの帰りに、カップラーメンや焼きそばを買ってきてくれる。冷蔵庫には、コンビニで買える、電子レンジで温めるだけのハンバーグや唐揚げなどがいつも入っていた。それに調味料類を巧みに使い、ただ濃い味付けにして食べる。程よくそれで僕は、常に空腹を満たしている。食べられる物なら、何でも良い。  


   


今年で僕は48歳、妹は45歳になる。互いに前パートナーとは離婚している。この広すぎる家で、意味も無くただ、生きている。世間では「引きこもり」とでも呼んでいるだろう。


僕がこうなったのは、昨年、父が死んだせいだ。大きな保険会社を経営していた。突発的な脳梗塞で倒れた際に、側頭部を強く打ち付け、そのまま、僕たちの世界から消えた。


葬式は泣かなかった。長男の言葉をあっさりと終わらせた僕を、親戚や会社の人達は、裏で憫笑していた。母は僕が5歳の時に、交通事故で亡くなっている。相手は飲酒運転だった。


父は、再婚はしなかった。子2人、家政婦に任せて、一生懸命働いたようだ。家政婦の中田さんは、妹が大学を卒業した頃に、辞めていった。保険会社は専務だった人が継いだようだが、降りた保険や父が貯蓄していた財産は、僕と妹、大人2人が普通に生活していくのには十分な額だった。父が急に居なくなって、離婚もしていた僕は、何だか何もやる気が起きなくなった。仕事をする意味を感じなくなった。生きる意味を感じなくなった。そこでやっと、涙腺というのは本当にあるんだと認識した。葬式の次の日だった。父との何でもないような記憶が、声が。想像したことなかった。親が2人ともなんて。なんでこんなことになるんだよ、と。

もう何も考えたくない。疲れた。


仕事はそれから数ヶ月して辞めた。退職金が思ったよりも入ったことに驚いた。



とにかく何か食べたい。

本能なだけに、身体は動く。上着を着て、時計を見た。22時。コンビニに行くか。駅の方へ歩いて5分のところにある。


外に出たのは数ヶ月ぶりだった。真っ暗ではなく、群青に近い、透き通った夜空が広がっていて、小さな星が沢山見えた。目がおかしくなったのかと思ってしまう。順応してくると、小さい星は更に輝きを増してくる。


「あの星の光は、何万年も前に出発して、今この地球に届いてるんだよ。パパの部屋に望遠鏡があっただろ?あれで観る星は、ちょっとだけタイムスリップ気分だな。ほら、一志。あれが一番星、北極星だ。時間をかけて輝いて、かっこいいだろ」その光は、父の肩に乗った僕の目の奥まで、一直線に届いていた。


小学生の頃、両親と僕と妹の4人で、秩父のキャンプ場に行った記憶がうっすらと蘇った。運転席の上にベッドがある、大きなキャンピングカー。車の中でテーブルに置いた自分のオレンジジュースがこぼれて、ずっと泣いていたような気がする。


川で泳ぎ、テントを張って、BBQでは骨付きのどでかい肉を焼き、夜は蛍たちのイリュージョンを鑑賞するのがお決まりだった。父はいつもテトラポットみたいな場所に上がり、お世辞にも上手とは言えないウクレレを弾き、ウイスキーを飲んでいた。


僕が蛍を捕まえに行こうとすると、父に怒られた。「蛍はお前に捕まえてもらうために、光っているんじゃないぞ。生きるために、パートナーを見つけるために、一生懸命光っているんだ」


蛍の光は点滅を繰り返して、今にも消えそうな光ばかりであったが、僕はその光が好きになった。その上空に輝いた幾千もの星の光も、蛍の消えそうな光も、確実に私の目まで真っ直ぐに伸びていた。


コンビニが見えてくる。久しぶりに歩いて膝が痛いな、なんて思っていると、ふと自分の嗅覚が反応した。


何か肉を焼く、ジューシーな匂い。気になって匂いの方へ進んで行くと、石垣のような手作りの壁で縁取られた、オシャレなお店が見えてきた。石壁に立てかけられた看板には


「BAR YORIDOKORO」と書かれていた。


酒か。久しく口にしていないな。そのままお店に入った。店内は思ったより狭く、それにも関わらず賑わっていた。2席ほどだけ空いていたバーカウンターの真ん中に座ると、ちょうど隣の客に、美味しそうなチキンラップらしきものが運ばれてきた。「これと同じものを2つ下さい」迷わず頼んだ。「かしこまりました。お飲み物はいかがなさいますか?」そう言うバーテンダーは、いかにも学生らしい若さが見て取れた。アルバイトだろう。「何でもいいので、ウイスキーをロックで」「かしこまりました。お煙草は吸われますか?」灰皿を見せてそう言ってきたが、無言で手を開いて見せた。


常連らしき客や、カップル、仕事帰りらしいサラリーマンと、結構忙しいはずではあるが、アルバイトの学生(予想であるが)の手際の良さは気持ち良かった。カウンターの真ん中は1番動きがよく見える。まるで特等席だ。色んな人と会話を交わしながら、手は止まらず、すぐにウイスキーが出てきた。「こちら本日入荷したばかりの、イチローズ・モルトでございます」丸い大きな氷と、少し薄い琥珀色のウイスキー。酒は詳しくないが、昔からウイスキーだけは好きだった。家に父が残したウイスキーが沢山ある。


「美味い」一言だけそう言うと、既に他の客と会話していたはずの少年バーテンダーはすかさず「ありがとうございます!」と笑顔で言った。


何度か口を付けた後、美味しそうなチキンラップがダブルの量で盛られて出てきた。胡麻、醤油、ニンニクなどの香りとマスタードが付いて、豪快にトルティーヤに包まれている。


かぶりついた。無言でかぶりつき続け、あっという間に食べ終わる。ふう、と息をついてウイスキーを流し込む。そこで隣の客と少年バーテンダーが、こちらを見ているのに気付いた。「すみません、Barでこんな食べ方しちゃって」僕がそう言うと、「いやーあまりに美味しそうに食べるから、私、今食べたのにまた食べたくなっちゃいました」と、その女性は笑いながら言った。「本当に、あまりにも美味しかったです」照れながら僕は言う。他人と会話したのはいつぶりだろう、と気が付いた。


その女性は微笑みながら、またチキンラップを頼んだ。それはなんだか面白くて、互いに笑ってしまい、それから会話が進んだ。最後の一個は食べ切れず、僕が食べた。笑顔が素敵な、よく食べよく飲むこの女性は、こずえと名乗った。


「何飲んでるんですか?」と聞かれると、目の前に置かれたボトルを指さした。「ああイチローズですね!良いなあ、美味しいですよねえ」と、こずえさん。「詳しいんですか?」「そんな詳しくはないですけど、確か、秩父の蒸留所で作ってるウイスキーですよ」

ふと、蛍のイリュージョンを思い出す。


口ひげを上にカールさせたマスターらしき人がいつの間にか、カウンターに立っていた。


小さい声でこんばんは、と言ってから、「イチローズモルト、お口に合いましたか」と自然に聞いてきた。


「美味しくてぐいぐい飲めちゃいますね」とぎこちなく答えてしまう。マスターは続けた。「名前の通り、イチローさんという方が秩父で、2007年に作った蒸留所なんですよ。羽生にあった廃業する他社の熟成途中の原酒を買い取って、完成させたんです。営業や調査のために、スコットランドまで行って修行してきたそうです。今、お客様が飲まれているのは『CHICHIBU THE FIRST』と言って、その秩父蒸留所で初めて作られたシングルモルトです。世界でも大注目。希少価値が高い。入手困難なんです。値段は今のところまだ、そこまで高騰していませんがね」そう言い切って、マスターは小さいコップで何かを飲んだ。


さらさらと一気に説明されたが、とりあえず分かったのは、秩父で作られた、超良いウイスキーってことだ。マスターの髭がより、カールしたように見えた。


こずえさんもうんうんと頷いていた。この人は何を飲んでいるんだろう。「不思議なことに、素晴らしい大自然に囲まれると、お酒も美味しくなるのよねえ」とグラスを見つめてから、グイッと飲む。そして「リヴェットお代わり下さい」と言った。


無性に、家族でテントを張ったあのキャンプ場に、行きたくなった。


私の父も、イチローズ・モルトを飲んだことがあっただろうか。


「このウイスキーはどこかで手に入りませんか」と僕が聞くと、ネットでなら、タイミング次第では、もしかしたら手に入るかもしれない、と少年バーテンダーが答えた。物知りだな。すぐに携帯で調べると、「残り一点」と書かれたウェブサイトを発見した。ラベルが違く、少し高かったが、すぐに購入した。


それから二回、ストレートでおかわりした。また、お腹が空いてきた。お腹が空いてなかったら、家の外には出てこなかった。肉を焼く匂いに気付かなければ、美味しいチキンラップにありつけなかった。今日入荷したイチローズモルトにも出会えた。久しぶりに、他の人と会話をした。


ちなみに、海外ではウイスキーなどをストレートで頼むことを「ニート」と呼ぶらしい。


久しぶりに、たくさん笑った気がする。


腹が減ったら、まずはここだな。そう、決めた。


ニートの一杯。


最後の一口は、いちばん美味しく感じた。